満月塩道楽

バカな事書きます

米大統領選で露呈した「かくれ」の存在、SNS炎上との関連性

職業柄、週刊誌や経済誌に目を通すことが多い。

 

先の米大統領選でドナルド・トランプ政権が誕生したことは記憶に新しいが、選挙の結果を左右したのは「"かくれ"トランプ支持者」だったとされる。メディアなどの調査ではヒラリー・クリントン推しているかのようにみえたが、結果を見ればトランプ候補に投票した層が予想を超えて多かったことで史上類を見ないレベルの大番狂わせが発生し、「ヒラリーが勝つ」と(半ば期待を込めて)叫んでいた専門家たちが揃って赤っ恥をかいた。

この度のトランプ氏の勝利が奇跡や偶然ではなく必然だったとか、メディアはトランプ優勢を知っていながらそれを隠してネガティヴ・キャンペーンを展開していた、とかそういう話はどうでもよくて、今回主題として取り上げるのは「かくれ」の存在についてである。なお、本記事では以降米政治にはほぼ触れないであろうことを予め断っておく。

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さて、最近の世の中は「批判社会」だ。人々は少しでも気に入らない奴がいると真っ向から否定したり、或いは小馬鹿にしたりしないと気が済まなくなってしまった。度が過ぎていようとも、良識派の地位を我が物にしたい人々は「不謹慎」を盾に己の「正義」を正当化し、人格攻撃だって平気でするようになってしまった。インターネットの話である。

さて、上記のような争い事を「ネットが炎上する」と呼ぶ。肌感覚だが、ここ数年で同様のケースが急増しているように思う。火元は週刊誌や、フェイクニュースだったり、YouTuberや所謂「バカッター」など、挙げ始めるとキリがない。自分で墓穴を掘って断罪される例もあれば、「言葉狩り」のように過剰反応が過ぎる例も多い。

何故、こうも簡単にネットが炎上してしまうのか。所謂「識者」の方々が思い思いにネット炎上のメカニズムを考察してくれているので、表面的な部分はそちらにお任せするとして、長い前置きだったが今回のメインテーマである「かくれ」から見たネット炎上についての事を書いていこう。

 

さて、例えばの話だが、貴方はコンビニで弁当などを購入。愛想の悪い店員のいるレジで精算を済ませて店を出た。近くの公園でいざ弁当を食べようと思うと割り箸が入っていない。

この直後の行動で、人は大きく2パターンに分類される。

 

A「この弁当を手で食えというのか、食べたくて買っているのだから割り箸をつけるのは当たり前だろう」と憤った貴方は腹の虫が収まらず、弁当を買ったコンビニに箸を届けろと文句の電話をかけることにした。「そういえばあの店員、感じ悪かったなあ。それも店長に言ってやろ。」

 

B「わーツイてない・・いいやもう。箸もらってこよ」

 

前者と後者には共通して、弁当を買ったコンビニへの「不満」が生まれている。Aはその不満を行動に移し、Bは色々と言いたいことはあったものの、自分の中で整理をつけて行動は起こさなかった。

 

Aについては行動動機が単純だ。「納得いかなかった」からである。単純ゆえに問題発生からクレームに至るまでのプロセスがシンプルだ。

しかしBが「クレームを入れなかった」理由を考えると、

・Bの人格が寛容的だった

・そのコンビニはこれから先も利用するため、あまり関係を悪くしたくない

・人と話すことに慣れておらず、クレームを入れるという行為に尻込みした

等々、多くのパターンが予想できる。つまり、この2パターンに分類するならば、Bが多くを占めるのは言うまでもない事だ。

 

店や事業所、コールセンターには日々「クレーム」が寄せられるが、実際に不満をクレームという形に昇華させる人は全体的に少数派だということがわかる。しかし前述の通り実際にクレームを入れずとも不満を感じる人も存在する事から、今回、Aグループを「クレーマー」、Bグループを「かくれクレーマー」と分類することにした。

 

ところで、この構図はインターネットにも当てはまる。例えばTwitterなどのSNSで起こる「炎上」は、少数の「投稿」と大多数の「RT」によって生み出される。

投稿を「不満」、RT(シェア・共感)を「声には出さなかったが不満に思った」に置き換えた場合、投稿者は「クレーマー」の役割を果たし、RTが「かくれクレーマー」となる。最近の調査では、ネットを炎上させているのはインターネット利用者の1%にも満たないという結果が出されているが、その数字に安心してしまうのはナンセンスで、「かくれクレーマー」の数を正確に把握することは不可能に近い。

 

RTは二つの性質を持っており、一つは投稿者の「RT数」に影響を与えるということだ。RT数はそのまま、投稿の影響度に関わる。そして二つ目が二次的クレーマーを生み出す「拡散性」だ。RTを媒介に、その話題を知らなかった第三者に情報を届け、それを受け取った利用者が感じ取った「不満」から新たな「クレーマー」と「かくれクレーマー」が生まれているのが現状だ。

 

炎上させているのが1%以下「しかいない」のではなく、「それだけいればもう炎上してしまう」という認識が正しいのである。著名人や企業、芸能界が炎上に慌て対応を間違える原因にはこの1.0%以下という少数派に対する慢心があるだけではなく、「かくれクレーマー」を視界に捉えきれていない現実があるのだ。火元に注視するあまり、周囲の可燃性や風向きを見落としているのである。

 

重ねるが、たかが1%の数字に安心してはいけない。一つの不満が噴出した段階で、不特定"大"多数の「かくれ」が存在しているという前提で考えなければ対応はいつまでも後手に回り続けるだろう。そう考えると、統計の安全神話は揺らぎ、数字が必ずしも真実を語るものではないという事に気がつくはずだ。1〜9の羅列だけで物事を把握した気になってはいけない。確実な未来など予測できはしない。

 

さて、貴方は「クレーマー」か、「かくれクレーマー」か、どちらに分類されただろうか。

 

 

 

男女差別の根底にある自己優越観

職業柄、週刊誌や経済誌に目を通すことが多い。

各誌のコラムはそれぞれの性格を表しており、読めば大体のスタンスは把握できる。一部例外はあるのだが…

 

週刊朝日は政権に対して批判的だ。左派の面がコラムにも色濃く現れる。田原総一朗室井佑月堀越千秋らを筆頭に、控えめに言って結構ボロクソ言っていた。堀越氏の連載「美を見て死ね」の終了やブラックアングルの休載による後半の物足りなさを川合さんの猫シリーズがそっと埋めているといった感じである。

 

そして、週刊朝日には「ニッポンスッポンポン」という連載がある。手掛けるのは北原みのり氏だ。

この連載のテーマは「性差別」であり、北原氏の体験談を交えながら女性の社会的な弱さ、そこからくる女性差別への批判が展開される。連載は第二部に突入しており、誌上の歴史も長い。

北原氏の連載は女性から大きな賛同を得るだろう。併せて、庶民目線の室井氏とジャーナリスト・田原氏が揃って政治批判を展開すれば立派な「弱者目線の週刊誌」が出来上がる。

話を北原氏の連載に戻すと、こちらも結構タチが悪い。氏が批判する女性差別は男性視線から語られており、どういう事かといえば、世の女性が差別だと感じなく、それでいて男性が性的対象と見る部分についてセクハラである、女性差別だと指をさして批判を始めるのが「ニッポンスッポンポン」である。良く言えば斬新な切り口と評価されるであろうし、悪くいってしまえば、こんなんただの言いがかりである。彼女に言わせれば春画やフランスの裸婦画はもれなくセクハラであり、こんなものが世に生まれるのは古来より女性の立場が弱いからだ、となるのだ。ここまでくると芸術もクソもあったものではない。

 

ここで少し話の枠を広げると、世の中には多くの女性差別が存在しているとされ、関連書籍も数多く出版されている。身近なところでいえばSNSでシェアされて回ってくる中にもそういった話題のものが定期的にある。勿論、読んで共感するものもあるが、その大半は女性差別の皮を被った男性差別である。

差別を批判する際に異性を蔑める行為や発言をするのはナンセンスだ。そこには「自分が優位に立ちたい」という潜在意識が見え隠れする。

女性の地位を向上するために自分らの努力ではなく男性に堕ちろという。女性のスタンスをアピールするためであれば男性をキモいと言っても構わない。彼女らの言葉を借りればこれこそ差別ではないのか。差別を語る連中が無意識に差別をしていれば、説得力も失われよう。

 

男尊女卑の歴史があった日本だからこそ、時代が進むにつれて女性の反発が大きくなっている。しかし、男尊女卑であろうが逆であろうが、我等を尊じて異性は卑しの思考が根付いている限り、差別問題に本当の意味での解決はないだろう。結局肝心なところで自分が可愛いのである。

 

が、絶望的ではない。文化が進み、今では男女間で一定の折り合いをつけてうまくやっている。さらに、女性に憧れる男性や、同性間での恋愛も社会的に受け入れられる雰囲気が広まりつつある。時間はかかってもやがて男女間の壁が「どうでも良くなる」時代が到来する。

そういう流れの中で、重箱の隅をつついては女だ男だやっている北原氏は作家でありながら時代遅れのレッテルを貼られるのであろう。

最後になるが、裸婦画を掲げて女性差別だなどとほざく奴に限って数えるくらいしか美術館に行った事が無いんだよな。一般に芸術と呼ばれるものにおいて、男と女の裸はどっちが多く描かれてるか知ってるか?北原さん。

 

 

 

劇ヱヴァの続編が公開されることは無いだろうと考える理由

職業柄、週刊誌や経済誌に目を通すことが多い。

映画「君の名は。」が大ヒットしており、11月頃になって「ああ、しまったな。」と僕は思った。多数メディアで取り上げられ週を追うごとに興行収入を伸ばした「君の名は。」。世に回っている感想を並べると、泣いた、ストーリーが凄い、美麗アニメーションと賛辞の嵐である。友人からも観るように勧められた。相当素晴らしい作品なのだろうと思う。

しかし、それ故に、世間の盛り上がりに比例して僕の後悔も膨らんでいく事になる。後悔の正体は「期待値」だ。

僕の中で今や「君の名は。」は想像を超えたストーリー展開が紡ぐ涙腺崩壊必至の感動的アニメーション映画だ。絶対面白い、間違いなく泣ける。後悔なんてある筈がない、と期待が膨らみすぎてしまったのだ。そしていざ映画を観た時に「これじゃない」と感じてしまう事に対する抵抗が大きくなった。根性がひん曲がっている僕は周りが盛り上がるほど白けてしまうのだ。

全くもってそんな性格をしている。11月に映画館まで来たが、結局「君の名は。」を観ることはなかった。このまま観ずに記憶から忘れ去られていくことだろう。

 

この失敗は直前の成功体験が大きく関係している。映画「シン・ゴジラ」だ。公開前から大きな話題になっており、おそらく今までの全てのゴジラ作品を観てきた(と思う)隠れゴジラファンな僕はちょっとした仕事上の関係もあって映画館に足を運んだ。

端的に言えば「シン・ゴジラ」は予想を超えていた。最初から最後まで背筋の震えが止まらなかった程だ。「所詮特撮」と観た映画がこれまで観た作品の中で最も衝撃を受けた。周りも似たような感想を抱いており、各社の報道には「期待値」というキーワードが並んだ。

 

総監督を務めた庵野氏はエヴァンゲリオンで知られる。新劇場版と銘打ったタイトルも第三弾までが公開されており、色々な意味で大きな話題となっている。意味深な終わり方で注目を集めた三作目から数年が経過したが、未だ続編は発表されておらず、それを投げ出してゴジラの映画を作っている、という氏への批判もある。

多くのファンから新作を期待されているのだ。

 

ようやく本題に入ると、僕はこれから先、「新劇場版」の続編は公開されることは無いだろうと考えた。

根拠の一つにサブタイトルの「序破急」がある。これは曲などの構成に使われる手法で序・破・急の三段展開だ。つまり、三作目であるQ(急)をもって、シリーズが終了を迎えたのでは、という文字通りの解釈だ。

次に場面の展開である。三作目は既に終わりを迎えた世界でストーリーが進行する。一、二作目が本編で、三作目が後日談として未完で終わるという捉え方だ。

そして三つ目にエヴァンゲリオン独特の世界観というものがある。一部の、特に古くからのファンの間には「これこそエヴァである」という声があり、本編で語られない部分を「考察」する事で補完してきた歴史がある。一作目から新しくエヴァを観た層、特に明確な「エンディング」を作品に求める層はハッピーエンドを無意識下に期待するが、必ずしもそうとは限らないのがこれまでのエヴァンゲリオンだという事である。

最後となる四つ目が庵野監督のシン・ゴジラにおける成功体験だ。あの映画は紛う事なく大成功であった。庵野氏のレガシーとなり得る仕上がりであった。これにより、氏の映画人生は一つの節目を迎えたのではないか、と考えることもできる。このままエヴァの続編を仄めかしつつ、ひっそりと人々の記憶からフェードアウトしていくのではないだろうか。

 

…とつらつら書き殴ったが僕自身エヴァの続編を期待しているし、願わくば次こそハッピーエンドを、と思う大多数の内の一人だ。公開されれば観に行くし、後悔する事になるのかもしれないが、その「もしかしたら」を文書化したのが今回の記事だ。

時間にはカネをかけろ

職業柄、週刊誌や経済誌に目を通すことが多い。

新聞や雑誌など、カネを払って読むメディアはそれなりに質のある情報を手に入れられるが、Webニュースをはじめとする所謂「タダで転がっているようなもの」は本当にレベルが低い。控えめに言って新聞の電子版以外読むだけ時間の無駄だと本気で思っている。

そのいい事例がDeNAの「WELQ(ウェルク)問題」だ。

医療の看板を掲げて時にオカルトを織り交ぜながらタメになる医療情報を提供してきたらしい。らしいと言っているのは僕自身、MERYだのなんだのまとめサイト系に対するアレルギーが凄まじく、兎に角視界に入れたくないのでGoogleでも検索の段階でフィルターにシャットアウトさせている程で、ハッキリ言って大嫌いなのである。正直「WELQ」というワードですら今回の騒動で初めて聞いた。

そもそも医療、自分の身体に関わることをインターネットで調べて間に受けること自体が問題ではあるのだが、今回「やっぱりこれってマズいよね」と改めて実感しているのは、たとえゴミであろうが多くの目に付く以上、少なからず影響を受ける人間がいるということだ。であれば、情報を発信する側の人間にはそれに対する責任が生じるのであるが、彼らにはそれが欠如していた。これが本当にタチが悪いと思っている。

聞けばあちこちから情報ソースをかき集めて繋げたような記事が量産されていたという。

http://mainichi.jp/articles/20161207/mog/00m/040/001000c

毎日新聞:DeNA:南場会長「創業者としておわび」 会見詳報(1)

医者に記事を書かせているならまだしも書いてるのはフリーランサー。米は米屋とはよく言ったもので、ド素人に書かせるから「肩こりは幽霊のせい」等という名言が生まれるのである。

等々。詳しいWELQ批判は他所の記事を参照してほしい。

 

キュレーションサイトは「カネを払わずに読めるメディア」の典型だ。そこに需要はあっても価値がない。読むだけ時間の無駄だ。身体の不調を覚えてインターネットで調べるくらいならカネを払って医者を訪ねてほしい。責任の所在が分からない以上、悪いのは根も葉もない情報を間に受けた自分自身ということになってしまうのだから。

最後に冒頭からの大前提をひっくり返す事になってしまうのだが、「カネを払っているからこのメディアは信頼できる」と思ってはいけない。

サイゾー(Business Journal)のように極めて悪質なケースも存在しているのだ。

うちの猫(茶)はルナ=ペントグラム=フリードリヒといいます

職業柄、週刊誌や経済誌に目を通すことが多い。

元からメディア嫌いな僕が何でまたメディアに関わる仕事に就いているのか、自分でも疑問だ。運命や人生というものは得てしてそういうものであり、客観的に見ればそれは「席替えをした隣のクラスメートがたまたま嫌いな奴だった」ぐらいのものなのである。いつか「卒業」を迎える時まで、のらりくらりと上手くやっていければそれでいいのだ。

 

週刊誌や経済誌、新聞にWebニュース、ジャンルごとに特色があり、媒体ごとに性格がある。当然ながら、スタンスの違いから生まれる主張の違いが存在する。それらの中から自分に近い性格のメディアを選び、心地よい情報通ライフを送ろう・・・

 

・・・という趣旨ではない。限られた付き合いの中では思考が固定され、視野が狭まる。情報に触れながら一方で情報を受け付けなくなっている。それはナンセンスだ。複数の視点から物事を捉え、自分の考えを持つ。疑問を持つ。そして一歩踏み込んだ先に今よりも広い世界が待っている。

 

あたかも偉そうに書いておきながら、僕自身はまだまだ未熟。口だけは達者なのである。けれどもこれから先、10年20年と経った時に相変わらずの口弁慶では嫌だなあと若造なりに危機感を覚えた僕は未来への投資と現在への戒めを込めてキーボードを叩くことにした。

 

ここで語られるのはメディアで報じられたニュースを読んだ僕の所感だ。多分、これが主になる。それと予め宣言しておくが不定期更新だ。毎日だと性格上飽きる。大したものでもないのに期待して毎日見に来られてもそれはそれで困りものだ。

趣味に関しても書く事があるかもしれない。TCGや一緒に暮らしている猫に関する記事がガス抜き程度にはあることだろう。

 

猫はいいぞ。写真でも貼っときゃ記事になるんだから。

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